昭和42年10月9日朝の御理解



健康であるとか、健康でないとか、お金をたくさんもっておるということ、お金をもたないということ。立派なお家に住んでおるということ、あばら家に住んでおるということ、そのどれもが、健康でありたい。お金も必要、大きい家に住みたい。またそれが、人間の幸せの条件の全てではないということ。不健康であっても幸せな人がある。お金がなくても安地安穏(あんち安穏?)にしておる人がある。お金は持っておっても、(ほかの?)苦しみを持っている人がある。どんな立派な家に住んでおっても幸せとは限らない。月の差し込むようなあばら家に住んでおっても、本当に人間の幸せを感じて住んでいる人もある。それは一つの幸せの条件ではありましても、条件ではあっても、幸せの全てではないということ。どういうような状態、どういうような道を歩かせてもらい、どういうような生き方にならせて頂いたら、人間が本当に幸せになれるか?自分だけではなくて、子供も孫もいわば子孫も、又は私共があの世でも幸せに(??)道があるか?と。そういう道を(??)

昨日夕方でした。竹内先生達が夫婦でやって見えられまして、いろんなお話しの中で、道と名のつくもの。柔道とか剣道とか、道がというもの。(そこには?絶対)実力の世界がある。実力がものをいうと。という事を言っておられました
信心でもやはり、実力を持っておるともっていないということ。信心の実力というのはどのような事かと。ね。お互いが信心によっていよいよ、実力を受けていくということは、私はいよいよ神様を信ずるということ。いよいよ神様を信じれれる信ずる力。信心をだんだんさせて頂いて、いよいよ神様を信じ切らせて頂く生活に入らせて頂く。そういう安心の生活。または有難いという喜びの生活。そういう生活に(??)に現れてくるものであるならば、それは健康であっても不健康であっても、その人は幸せだということが言える。幸せのおかげを頂いていけれるいよいよ道にお互いがあることがいえる。
それからがどういうようなおかげになっていくかと言うとですね、日日がおめでたいということ。神様を信じることができる。神様おめでとうございますと、神様もまためでたいの~と、神様と私共がおめでたいということになっていくということ。そういう私共は道を体得しつつあるということが、お互い幸せになっていくところの基礎になっておらなければならない。お互いが神様をいよいよ信じさせて頂ける道を歩いているかどうか?と。

御理解100節に、「めでためでたの若松様よ、枝も栄える葉も繁るというではないか、生神金光大神の道は家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃ」とこう。そういう私共がです、家繁盛子孫繁盛の道を私共が歩いておるかどうか?その道を歩かせて頂く所から、私は力が頂ける、そういう道にあるという事が、幸せの第1の条件である。それは今は貧乏しておっても、今は不健康であっても、今は良いお家に住んでいなくても、これだったら絶対に幸せになっていけれる、真実幸せのおかげを頂けれる道をたどらせて頂いていることになる。信心は頂いておりましても、金光大神が教えて下さる道を歩いていない信心の稽古をしていないならば、それは幸せには繋がらない。目先目先の一つの事が成就する。そのことが有難いだけの信心では、ね、喉が乾くからお水をどうぞと。水を与えられればおかげとこう思うけれども、それが与えられんでも、それを欲しがらんですむ私の方が幸せである。

今日は(??御理解??)皆さんが人間の幸せとはこういうようなものであるということをです、分かって下さるだけでよい御理解なのです。ね。人間の幸せというのは、私共がお金のない人はお金が欲しい、不健康な人は健康が欲しいと。自分の思ういわゆる難儀な問題が解決すれば、もうこれが一つ叶えばもう、他に言うことはないと思うておるような浅はかなことではいけないとここでは申してある。それで幸せになれるなんて事は絶対にない。ですからそういう一つの難儀を感じておる時にです、本当に信心の道を体得しとかなければならないという事です。ね。ですからその信心の道とは?日日が祝いめでたの若松様よというような日日にならせて頂く、そこんところを目指して信心の稽古をさせて頂いておるという道を体得していかなければならないということである。いうならばそういう日日の信心生活の中に、「やれ痛や、今みかげを」という心。なるほど難儀はある。痛いもある、かゆいもあるけれども、その痛いこともまた有難いのだ。その事によってめぐりのお取り払い
頂いているのだと、信じさせてもらえれる日日であらなければならない。そういう道を体得して、稽古していきよるのだと。皆さんが願っておられる、どうぞお金のお繰り合わせを頂きたい。健康のおかげを頂きたい。この事が一つ成就すれば、もう他にいうことはないというておるような、それが信心であると言うたら、皆さんの信心に対するところの考え方というのが間違えておる。それは幸せではない。それが一つ(叶ったから??)と言うて幸せというのではない。幸せの条件であっても、全ての幸せの全てではない。そういう難儀をお互いが感じておる時に、本当の信心の道というものを体得させてもらうということ。(じゃ?)この道さえ歩いていけば幸せだ。この道さえ歩いていけば、人間が幸せになれる、あの世にお幸せを持っていけれる、この世にも幸せを残しておけれるという信心を皆さんが、これだと思いこませてもらい、これだと分からせてもらうということが、信心の1番のねらい名からなければならないということをです、皆さんが難儀を感じておられる間に体得して頂きたい。今おかげを頂き、今日分かれというのではない。信心とはそういうものだと思いこませて頂かなければならい。どんなに痛いことがあっても、苦しい事があっても、「やれ痛や今みかげをという心」今こそ幸せの元であるところの難儀の元である、難儀の元のお取り払いを頂いている時なのだと分からせてもらうという事。めぐりのない有難い生活。もうこれからめぐりを積むような生活にはなってはならないと分からせて頂く。そこに私は人間の幸せの道というのが開けてくるのである。ね。

「祝いめでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないかと、生神金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃ」その道を私共が教えて頂いておるということが、もう幸せに繋がるのだという事だと、ね。ですから日日おめでとうございますという、夫婦が目指さなきゃならん。たとえて(ではなくても??)お正月だけにおめでとうございますじゃない。「明けましておめでとうございます」という心持ちなんです。目が覚めた、夜が明けた。ね。親子の者が今日もおめでとうございますとこう言い合える心の内容、それが人間の幸せであるということです。ね。そこんところを皆さんが分かられ、そしてそれをそんなもんだなと思いこまれることから、私は本当の信心の稽古が出来るのではないだろうかと。一つ難儀な問題を通して、そこから道を体得していく、そこから道を頂いていく、そこからいよいよ神様を信じる力がついてくる。ね。いわゆる信心のいわゆる実力者にならせて頂くということが、人間の幸せであるということ。そういうものだということを皆さんが思い込ませて頂くというおかげを頂いていかなければならないですね。